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「totomeのパチンコ記録」へお越しいただきありがとうございます。
前回の第6話では、残り60,000円という崖っぷちの絶望から何とか奇跡的な立て直しを見せ、自ら購入した初めてのパチンコ雑誌『猛爆パチンコ王』との出会い。
精度を高めた釘調整の意識、そして探し求めていた西陣の銘機『ミラクルフォースSP』と運命的な巡り会いをつかんだ頃のお話を書きました。
今回は、新しく通い始めたD店での日々の中で起きた今でも忘れられない心温まる出来事と、激動の本格的な生活1か月目を終えた当時の率直な胸の内を振り返ってみたいと思います。
ミラクルフォースSPとの日々と直感の選択
1994年2月19日から、私は他地域に足を伸ばして見つけたD店へ毎日のように通うようになりました。
それまでメインのホールで打っていた綱取物語のような爆発力のある機種も大好きでしたが、ミラクルフォースSPにはそれとはまた違った奥深い魅力がありました。
当時は、液晶画面による美麗な演出を搭載した機種が各メーカーから続々と登場し、パチンコ界全体が新時代へ向けて大きく動き始めていた過渡期です。
そんな中、私はなぜか液晶非搭載であるこのミラクルフォースSPのシンプルながらもアツいゲーム性に強く惹かれました。
打てば打つほど面白さが体に染み込んでいく、そんな職人魂をくすぐられるような感覚を、久しぶりに味わった機種だったように思います。
結果として、2月19日から27日までの9日間で6勝3敗。 他地域に目を向け、自分の直感を信じて新しいホールに飛び込んだ成果が実を結び、収支も大きくプラスを叩き出すことができました。
これにより、2月中旬には残り60,000円まで激減していた私の予算は、見違えるほど大きく回復を遂げたのです。
もちろん今になって冷静に振り返れば、当時の私の技術による実力というよりは、台の状態や運に助けられた部分が大きかったのだと思います。
それでも、絶望の淵から這い上がってきた当時の私は、「もしかしたら、この世界でまだやっていけるかもしれない」という、このスタンスで生きるための小さな、しかし確かな自信を持ち始めていました。
2月21日、118番台での苦しい我慢比べ
そんなD店での実戦の中で、今でも鮮明に脳裏に焼き付いているのが2月21日の出来事です。
その日、私は片シマ一列に並んだミラクルフォースSPの中から、左の角台にあたる118番台を選び、朝一番から腰を据えていました。
しかし、この日の展開は序盤から非常に苦しく、思うように出玉が伸びてくれません。
幸いにも早い段階で持ち玉遊技が可能となる「無制限札」を引くことはできていたものの、ドル箱は2箱から3箱の間を何度も行ったり来たりするばかりでした。
増えそうで増えない。かといって、全て無くなって追加投資になるわけでもない。
そんな、打ち手にとって一番精神的に堪える我慢の時間が、昼を過ぎ、夕方を迎えても延々と続いていました。
朝から夜まで、同じ椅子の硬さを感じながら1台の台と向き合い続けるというのは、想像以上に身体を激しく消耗させるものです。
ひたすらハンドルを握りしめ、台に向かい続けました。同じ姿勢を続けることによる身体的な辛さもありますが、それ以上に「ここから展開が良くなるのだろうか」という不安と戦い続ける精神的な疲労のほうが何倍も大きいのです。
背後に立つパンチパーマの店員さん
そんな張り詰めた空気の中、夕方頃から私のすぐ後ろに、一人の店員さんがじっと立つようになりました。
頭はきれいに整えられたパンチパーマで、いかにも昔ながらのパチンコ店の従業員といった風貌の、お世辞にも優しいとは言えない強面の店員さんです。
30年以上が経過した今でもその顔をはっきりと覚えているほど、当時の私にとっては威圧感のある印象的な人物でした。
当時の私はそのホールにおいて、まだ数日前から急に見かけるようになったばかりの「新顔」の客です。
しかも連日それなりの結果を出していたこともあって、私の心の中では、「もしかして、プロ気取りの不審な客としてマークされ、警戒されているのではないか」という被害妄想に近い恐怖心が本気で膨んでいました。
背後に立つパンチパーマの店員さんの視線が気になって仕方がありませんでしたが、後ろを振り返る勇気などあるはずもなく、ただただ緊張で生唾を飲み込みながら、黙って目の前の台を打ち続けていたのを覚えています。
閉店間際に訪れた静かな奇跡
状況がドラマチックに一変したのは、夜の帳がすっかり下りてからのことでした。
それまでまるで静まり返っていた118番台が、何かの引き金を引いたかのように、突然牙を剥き始めたのです。それこそがミラクルフォースSP特有の、一度火がついたら止まらない強力な数珠連動でした。
当たりが次の当たりを猛烈に呼び寄せるような怒涛の展開となり、デジタルが揃うたびに周囲の視線が集まります。
気が付けば、その日の総大当り回数は30回を記録していました。
私の足元には、先ほどまでの停滞感が嘘のようにドル箱がずらりと積み上がり、朝からの張り詰めた苦労が一気に報われたような最高の充足感に包まれていきました。
やがて時計の針が閉店時間を指しそうになり、賑やかだった店内には、一日の終わりを告げる蛍の光の音楽が静かに流れ始めます。
私はようやく、緊張と興奮に満ちた長い一日を終えようとしていました。
すると、素晴らしい連チャン中もずっと私の背後に張り付いていた、あのパンチパーマの店員さんがゆっくりと私に近づいてきたのです。
強面の店員さんがくれた一言
私は思わず身構えました。閉店間際のこのタイミングで、何か厳しい注意を受けるのではないかと心臓が跳ね上がりました。
しかし、私の耳元に顔を近づけた店員さんが、周囲の騒音にかき消されないような小さな声で発したのは、全く予想外の言葉でした。
「……頑張りましたね」
たったそれだけの一言でした。
しかし、その静かで無骨な言葉は、私の胸に深く突き刺さり、今でも決して忘れることができません。私は何か不条理な因縁をつけられるのではないかと怯えていました。
ところが実際にはその店員さんは、朝から箱を増やしては減らし、苦しい展開を必死に耐え忍んで台に食らいつき続けていた私の姿を、ずっと温かい目で見守ってくれていたのです。
私は激しい驚きと、それ以上の深い感動に包まれながら、「ありがとうございます」とだけ答えるのが精一杯でした。
その日の最終的な収支は、プラス89,000円。
数字だけを見れば非の打ち所がない素晴らしい結果です。
しかし、夜道を歩きながら私の心にずっと残っていたのは、獲得した大金の重みよりも、あの強面の店員さんがかけてくれた一言の温もりでした。
当時のホールには、現代のような洗練されたシステムやマニュアル化された接客こそありませんでしたが、人と人との不器用な繋がりや、こうした泥臭い人間味のあるドラマが確かにあちこちに転がっていたように思います。
【パチンコ昭和・平成レトロあるある:強面店員と『手積みドル箱』の心理戦】
◆ 見慣れない新顔への「無言のマーク」
当時は防犯カメラやデータ管理システムが発達していなかったため、ホール内での不正やプロの警戒は「店員の目」がすべてでした。
連日勝ち始める見慣れない客の背後に、いかつい店員が腕組みをして仁王立ちする……あの背中に刺さるような鋭い視線と威圧感は、当時のホールで誰しもが一度は味わった心臓に悪い洗礼でした。
◆ 手作業だからこそ生まれた「人情と温もり」
当時は今のようなパーソナルシステム(各台計数機)はなく、ドル箱の上げ下ろしや積上げ、カウンターへの運搬まで全て店員の手作業でした。
だからこそ、朝から箱を増やしては飲まれを繰り返し、黙々と耐え続ける打ち手の姿を店員も一番近くで見ていたのです。
マニュアル化された接客ではないからこそ、ふとした瞬間にこぼれる「一言の労い」に人間味と温もりが溢れていました。
【この日の実戦から学んだプロの金言】
◆ 展開に殺されない「我慢の稼働」と「心の耐性」
パチンコで勝ち続ける上で最も過酷なのは、追加投資になるでもなく出玉が伸びるでもない「2箱と3箱の間を往復するような我慢の時間」です。
ここで痺れを切らして台を捨てたり、雑な打ち方に走ったりすると期待値を取りこぼします。
苦しい展開でも「台の状態が良ければ淡々と回し続ける」という精神的な耐性こそが、閉店間際の爆発を引き寄せるプロの最低条件です。
◆ ホールは「敵」ではなく「空間を共有する人間同士」
プロとしてホールに通う以上、店側や店員をいたずらに敵視して警戒する必要はありません。
真摯に台と向き合い、ルールとマナーを守って打っていれば、強面の店員であっても一人の人間として健闘を認めてくれることがあります。
店員や周りの客も含めて「その空間で共に過ごす人間同士」という敬意を持つことが、長く現場で生き残るための隠れた極意です。
20万円プロジェクトの完済と残る課題
このミラクルフォースSPでの大躍進のおかげで、この生活を始めるにあたって自分自身に厳しく課した「20万円プロジェクト」(自分で自分に融資した20万円の貸付金を全額回収して返済するルール)を、無事に全額手元に回収して返済することができました。
思えば2月中旬、P店の綱取物語で厳しい結果を喫し、残り資金が6万円まで追い詰められていたあの瞬間は、文字通り私の人生の崖っぷちでした。
あの時点では、本当にこの生活の終わりと、自分の甘さを心の底から覚悟していたのです。
もし、2月16日の運命の勝負で151番台に座った私が、あと一歩届かずに敗れていたら、私はその日のうちにパチンコを辞め、暗い気持ちで再び就職活動の履歴書を書いていたに違いありません。
そう考えると、人生の分岐点というのは本当にどこでどう繋がっているか分からないものです。
ただし、この予算を完済できた時点でも、私は自分のことを決して「パチンコのプロ」だとは自惚れていませんでした。
雑誌を読んで意識を変えたとはいえ、ヘソ周辺などを見て行う釘調整を見切る技術はまだまだ初心者レベル。千円あたりの回転数の把握も、実戦中は曖昧になってしまうことが多々ありました。
第3話から続け、第6話の雑誌をきっかけにさらに細かく書き付け始めた収支表や立ち回りの反省ノートを手に、技術的にはまだまだ素人同然の打ち手に過ぎなかったのです。
本格的な生活1か月目を終えて
2月28日。私の新たな生活様式における、記念すべき最初の1か月が幕を閉じました。
この日は締めくくりとして、久しぶりに始まりの場所であるP店へと足を運び、思い出深い綱取物語の151番台を打ちました。
大きなトラブルに巻き込まれることもなく穏やかに一日を終え、この道としての第一歩となる一か月を、私はようやく五体満足で乗り切ることができたのです。
この激動の一か月を振り返って、私の心に最初に湧き上がってきた感情は、達成感よりも何よりも、「パチンコで食っていくというのは、想像以上に過酷で大変だ」という重い現実でした。
会社員時代に組織の中で感じていた理不尽な苦労とは、全く質の違う種類の孤独な疲労感がそこにはありました。
会社にいれば、誰かが仕事を与えてくれ、困れば誰かが助けてくれます。
しかし、この世界では誰も助けてはくれません。誰も次の指示を出してはくれないのです。
毎朝どのホールに行き、どの台に座るのか。すべて自分の頭で判断して行動し、その結果として生じるプラスもマイナスも、すべて自分一人の責任として冷酷に受け止めなければならない。
ホールの喧騒に包まれたシマの中で、たった一人で黙々と台と向き合い続ける毎日は、予想を遥かに超えて孤独で、精神を削られるものでした。
それでも、私は自ら破滅することなく、何とか最初の一か月を生き延びました。「20万円プロジェクト」という、自分との約束も守り抜くことができたのです。
しかし、これから先の未来も本当の意味で維持し続けるためには、自分にはまだ圧倒的に足りないものがある。運や直感だけに頼る立ち回りでは、いつか必ず限界が来る。
その厳しい現実を、私は1か月の実戦を通じて、身を以て少しずつ理解し始めていたのでした。
新天地・D店での激闘、そしてパンチパーマの店員さんの温かい一言に救われ、激動の1か月目を無事にプラスで終えることができました。
自分に課した「20万円プロジェクト」を完済し、安堵したのも束の間。2か月目となる1994年3月、パチンコ人生の最大の転換期となる三共の名機『フィーバークィーンII』との出会いが訪れます。
しかしそこには、データ表示機すらない時代特有の、さらなる泥臭い格闘が待っていました。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
次回、【第8話】専業2か月目の洗礼|データ表示機なき時代の孤独な回転数カウント(1994年3月上旬)に続きます。 平和の銘機『フィーバークィーンII』との衝撃的な出会いによって、私のパチンコ人生はさらに大きな転換期を迎えることになります。
当時のホール事情や、本格的な釘調整・回転数との泥臭い格闘の日々も含めて、詳しく振り返っていきたいと思います。
どうぞお楽しみに!


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